体のこと、あれこれ

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  • 2020年9月14日

    2019年の日本人の平均寿命は女性87.45歳、男性81.41歳だそうだ。

    自分が平均まで生きられたとしたら、あと23~24年は生きるだろう。

    短いような、長いような、ちょっと複雑な感覚である。

    親戚や恩師、同級生など身近にいる人の死に遭遇するごとに一歩ずつ死の存在が確実に近づいて来るのが分かる。

    本当は明日何かの事故で終わってしまうのかもしれない。

    しかし、今はとりあえず平均寿命は生きるものと仮定して考えてみたい。
    最近少々気になるのは、死期がいつであろうと健康的に寿命を全うできるかどうかという点である。

    本書が大きな反響を受けたことで、文藝春秋社が安楽死の是非に関するアンケートを行ったそうだ。

    対象は寄稿者を中心とする146名の識者で、内容は「A・安楽死に賛成 B・尊厳死に限り賛成 C・安楽死、尊厳死に反対」という三つの選択肢から選んでもらい、理由を併記するというもの。

    なお、ここでいう安楽死とは「回復の見込みのない病気の患者が薬物などを服用し、死を選択すること」であり、尊厳死とは「患者の意思によって延命治療を行わない、または中止すること」とされている。

    結果はアンケートを送付した146名中、回答は60名からあり、

    A・安楽死に賛成 33名
    B・尊厳死に限り賛成 20名
    C・安楽死・尊厳死に反対 4名
    無回答 3名

    だったそうだ。

    何事に関しても一家言ありそうな識者たちが回答率41.1%とは随分低いように思われるが、それだけ迷いのあるテーマなのかもしれない。

    いずれ回答が寄せられた中で半数以上は安楽死肯定派である。

    理由は「人には逝き方を選ぶ権利がある」というもの。

    「B・尊厳死に限り賛成」を選ぶ理由では「恣意的に命を奪う手法」としての安楽死への抵抗感があるようだ。

    また、「安楽死と尊厳死、自殺と自殺幇助などの線引きがきちんとできるのかどうか不安」「本人は『積極的な死』に満たされても、遺された人はその「自死」が一生頭から離れないだろう」などというものもあった。

    一方、数は圧倒的に少ないが「C・安楽死・尊厳死に反対」にも心を打つ理由を述べる人もいる。

    ALS(筋萎縮性側索硬化症)で2017年10月に亡くなられた学習院大学名誉教授の篠沢秀夫氏(自分世代以上の方は「クイズダービーの篠沢教授」といえば覚えておいでだろう)である(アンケートは2017年2月のもの)。

    篠沢氏から寄せられたCを選んだ理由は以下のとおりである。

    〈(平成)21年4月には人工呼吸器をつける決心をして、この病気に負けまいとの思いで暮らしてきました。最後まで闘いぬくという覚悟で呼吸器をつけたので、安楽死など病気に負けることになるので絶対に望みません。考えることもありません〉

    篠沢氏はなんと気高く、雄々しく、勇気を持って病気に立ち向かっておられたことだろうか。

    そして、個人的にはこのアンケート結果にこそ橋田氏が言いたかったことが端的に凝縮されていると感じられた。

    多くの人が安楽死、尊厳死を肯定しながらも法的整備が行われない日本。

    その法制化に反対する人々の理由には哲学的観点からのものもあるが、個人的に一番わかりやすかったのは今現在生き延びるための治療を受け続けている重度の障害者の人々が、法制化によって「見えない圧力」を受けてしまうことへの危惧である。
    重度障害を持つ人の中には家族への気兼ねを感じている人も多い。

    経済的負担が大きければ大きいほどその気兼ねの度合いは大きいものになるようだ。

    それまでは曖昧に済まされてきたものが、法制化された途端にどれかを選ばなければならなくなるのだ。

    もちろん、選択肢には「安楽死も尊厳死も選ばない」という選択肢もあり、それを選ぶ自由も権利もあるのだが、今の医療情勢の中で、どこまで「真意の選択」ができることか。

    「お宅も大変ねえ」などといった安易な第三者の家族へ対するねぎらいの言葉が見えないプレッシャーとなって本人にのしかかるかもしれず、「忖度」を迫ることにもなりかねないのだ。

    「真意の選択」を可能とするには何人からも決して侵されることのない個々人の価値観の絶対的保障(相互に認め合う風潮)とともに、家族に対する肉体的・経済的負担がかからないことが最も重要な条件になることは疑いもない。

    むかし、「乳牛は乳が出なくなったら屠殺場へ送る。豚は八カ月たったら殺す。人間も、働けなくなったら死んでいただくと大蔵省は大変助かる。経済的に言えば一番効率がいい」と発言して大いに顰蹙を買ったのは故渡辺美智雄通産大臣であった。

    さすがにこれほどストレートにいう人はいなくなったが、安楽死・尊厳死を論じる際に医療費コストの話が出るのはそうした価値観が無くなっていない証拠であろう。
    橋田氏の主張は「死ぬときは苦しまず、安らかに、楽に死にたい」という単純な願いから発信されたものである。

    それを実現するには法制化がやはり必要である。

    1991年、東海大学医学部付属病院である一つの事件が起きた。

    多発性骨髄腫で昏睡状態になっていた57歳の男性に対して家族が安楽死を求め、それに担当医が応じたものだった。

    男性は昏睡状態でありながら薬剤が効かず苦しみ続けていたために家族が見るに見かねて安楽死を希望した。

    その三年目の医師は繰り返される家族の要求を何度も何度も反対し説得し続けていたが、次第に抗しきれなくなり、あと余命1~2日というところで致死量の塩化カリウムを注入したのである。

    その医師は結局殺人罪に問われてしまったのだ。

    確かにその医師には自分のやっていることの意味は分かっていただろう。

    あと1~2日すれば黙っていても死は訪れる。

    何もあえて「犯罪」を行うことはない。

    しかし、家族からの懇願というよりも目の前で苦しみ続ける人を放置できなかったのであろう。

    彼は男性を痛みから解放してあげたかっただけなのだ。

    これほど優しい、人思いの医師が罪に問われる悲劇は二度と起きてはならない。
    橋田氏が提唱する安楽死には先述のようにあくまでも選択の自由、選択の尊重、個人の価値観の相互理解が前提とされている。

    そのうえで「安楽死」を悪用されないように

    〇弁護士や心理カウンセラーをも含めたグループによる判定

    〇認知機能が正常な段階での意思表示

    〇肉体的苦痛を伴う場合に限り認める(精神的苦痛は認めない)

    などいくつかの条件を提示している。
    世界にはいくつかの国とアメリカのいくつかの州で安楽死が認められている。

    しかし、内情は安易に致死量の薬の処方がされるケースもあるという。

    https://synodos.jp/society/1070 をご参照願いたい。

    例えばアメリカオレゴン州では「抗がん剤治療の公的保険給付は認められないが自殺ほう助なら給付を認める」という趣旨の通知が届くのだとか。

    また、うつ病患者の「死にたい」の言葉に対し、安易に「ああ、そうですか。死の自己決定権を行使したいのですね」といって致死薬が処方されたりすることもあるとか。

    おそらく多くの人がイメージする安楽死・尊厳死よりももっと安易なところにまで行ってしまっているところがあると主張する人もいる。
    自分も橋田氏と同じで安楽死を認める立場であるが、やはり気になるのは重度障害を持つ人々が忖度を迫られることになりはしないかという点である。

    何人からも侵されることのない「生きることの尊厳」を守る社会環境の醸成が必要だし、それを保障する社会福祉の実現が必要だと思う。

    安楽死肯定派の中には悪意なく、「医療費も安くなる」という人もいるが、コストの次元でそもそも話すべき事柄ではないだろう。

    本書では橋田氏の脚本家としての歩みも簡略に記載されており、「おしん」が生まれた背景や「鬼渡」の裏話なども書かれている。

    橋田氏が安楽死を肯定するに至った経緯を見るとともに、安楽死の是非について考えてみるのも良いのではないだろうか。

    あなたは安楽死を認めますか、尊厳死なら認めますか、それともどちらも認めませんか。

  • 2020年6月30日

    あなたの周りには時や場所や周りの状況に関係なく、シャープペンを見ると必ずカチャカチャとノックし続け、ハンマーを見ると所かまわずトントンと打ち続けるような方はいるだろうか。
    あるいは誰かに指示されたわけでもないのに目の前の人の動作を真似してしまうような方はいるだろうか。
    そのように、なにか物品を見るとそれに関連した動作や、目の前の人物の動作の模倣を、時間や場所に対する配慮もなく、相手に対する気遣いもなく行ってしまう症状がある人は、もしかしたら環境依存症候群かも知れない。
    その人の行動は目に入る物品から想起される動作や、目に入る人の動作によって規定されてしまう。
    つまり、周りの環境状況によって自分の行動が規定されるので環境依存症候群と呼ばれる。
    脳の前頭葉の役割は、行動・行為・運動を制御・調整することである。
    目や耳から入った映像や音の情報に対し、自分が今置かれている周りの状況も加味しながら、どのような反応をしたらいいのか、あるいは何もしないほうがいいのか、様々な判断のもとに人の行動は選択される。
    その前頭葉の働きが脳の損傷によって障害されると抑制や調整が外れるため、後位脳によって様々な刺激(目に映る物品、人の動作、言葉、文字など)に対して、自動化されたような行動を反射的に行うようになる。
    前述のように物品から想起される行動を取る、あるいは人の動作を模倣する、人の言葉を反復するなどといった形で反応が現れる。
    もちろん、前頭葉に障害を持った人が全て環境依存症候群になるのではなく、前頭葉に障害を受けた人に現れる一つの症状である。
    あるケースでは介護者が首をかしげるのを見て同じように首をかしげる模倣行為を行い、
    相手の言葉をそのままオウム返しに答え(反響言語)、
    なにかの言葉につられて即座に歌を歌い出し、
    ほかの患者さんへの質問に対して先んじて応じ、
    視覚に入った看板の文字をいちいち読み上げる(強迫的音読)
    などの症状が見られたという。
    また、物品や検者の動作が提示されても反応しないよう指示されていても、物品の名称を呼称し、検者のチョキの形の手に対しては「チョキ」「V」「2」などと言語化して強迫的言語応答が見られるという。
    別のケースでは検査時、患者の前に紙とハサミを置くと、なんの指示もしていないのに紙を切り出す。
    検者が「紙を切らないでください」というと、検者を見て一時その行為は止まるが、手元を見るとまた切り出すという。
    また、「真似をしないでください」という指示を出しても、目の前で手を振る、敬礼をするなどの動作をすると、数秒後にその模倣をしてしまう。
    そうした模倣行動は発症後6ヵ月が経過しても継続していたとのこと。
    脳梗塞を発症した60歳代の女性は運動機能の麻痺は全くなかったが自発性が低下し、日常生活全般に介助を要する状態だった。
    歩行は言葉による促しに反応せず、誘導にも抵抗し、歩き出しと静止には介助が必要であった。
    訓練を開始してまもなく手引き歩行が可能にはなったが、訓練室内で物品や刺激が入ると注意散漫になるために、比較的物品の少ない廊下での訓練を行った。
    食事は、箸を提示すると右手で箸を持って食べ物を掴んだり、離したり、まれに口元まで運ぶこともあった。
    しかし、開口せず実際の食事摂取にはなかなか繋がらなかったようである。
    箸を使うことと、口を開くこととの協調性が低下していたのである。
    介助で口元に運ぶことに対しては抵抗し、また、多数の皿があると注意散漫になるなど、食事摂取困難なため、彼女のリハビリの目標は「経口から栄養摂取できる」というものになったという。
    看護・介護・リハビリスタッフの食事介助で、6~10割摂取するのに1時間の時間を要したとのこと。
    環境依存症候群を提唱したレールミッテのケースでは、彼の自宅を訪問した患者は絵が壁から外れているのを見て釘とハンマーで絵を壁に固定したという。
    また、寝室を見せると、患者は服を脱ぎ出し、ベッドに寝てしまったという。
    まるで自宅にいるかのように。
    このように患者には自分の置かれている状況が理解できず(状況無視)、環境刺激からの影響を排除できない(環境固着)、という現象が見られる。
    原因は前頭葉の障害であることは分かっていても、その再構築はなかなか難しい。
    現時点では粘り強い再学習(リハビリ)しか方法はない。
    麻痺はないのに行動を制御できない世界とはどのような感じだろうか。
    こうして見ると、人を人たらしめているのは前頭葉の働きなのかもしれない。
    これもまた脳の不可思議さを感じさせる事例である。
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