体のこと、あれこれ

コルサコフ症候群

2018年2月7日

このコルサコフ症候群は、以前、書籍紹介をしたオリバー・サックス氏の「妻を帽子とまちがえた男」にも収録されていた疾患で、ビタミンB1欠乏によって起きる、健忘を主症状とする疾患である。
ビタミンB1欠乏というと真っ先に脚気を想起するが、このような脳疾患を起こすこともあるようだ。
同じくビタミンB1欠乏によって発症するウェルニッケ脳症と合わせ、「ウェルニッケ・コルサコフ症候群」と称されることもある。
ウェルニッケというと、多少リハビリを学んだものは脳のウェルニッケ野という言語理解を司るエリアを思い浮かべるだろうと思われるが、
ウェルニッケ脳症は側頭葉のウェルニッケ野に障害があるのではなく、視床や乳頭体など中心部に近いところの障害で生じる疾患である。
ウェルニッケ脳症は部分的な眼球運動障害や運動失調を引き起こす疾患なので、健忘を主症状とするコルサコフ症候群とは全く病相が異なる。
眼球運動障害で外側に目を動かせなくなり寄り目になるとか、運動失調では急激に歩行が不安定になってどこかにつかまり歩きをするようになる。
このウェニッケ脳症が慢性化してくるとコルサコフ症候群を引き起こすことがあるということだ。
そのほか、軽い意識障害から昏睡状態に陥ることもあるし、回復過程では物が二重に見えたり、めまいがすることもある。
無力、無気力などの精神状態からうつを発症することもあるという。
ビタミンB1の欠乏がこれほど多彩な症状を発症させる。

我々には欠かすことのできない栄養素だということだ。

コルサコフ症候群は必ずしもウェニッケ脳症を経て発症するわけではなく、外傷や脳卒中などの器質的原因によって起きる場合もある。
両者は同じビタミンB1欠乏によって起きるが、脳の障害を受けるエリアの違いから運動障害と健忘という病相が異なる。
また、ウェルニッケ脳症は意識障害を伴うこともあるが、コルサコフ症候群は基本的に意識障害を伴うことはない。
さらに、ウェルニッケ脳症は回復可能とされているが、コルサコフ症候群は若干の改善はあっても、基本的に脳の萎縮が始まっており、不可逆的障害とされている。
このように疾患としては全く別概念の両者だが、原因が同一であり、アルコール飲歴から、
「アルコール依存患者にしばしば発症する中枢神経疾患の、急性期がウェルニッケ脳症、慢性期をコルサコフ症候群」
と捉えられることもあるそうだ。
ウェルニッケ脳症を経てコルサコフ症候群を発症する患者は約80%とも言われている。
つまり、前述のウェルニッケ脳症は回復可能だが、コルサコフ症候群は回復が難しい障害であることを考えると、

ウェルニッケ脳症の段階で適切な治療を受けていれば、コルサコフ症候群を発症しなくて済む可能性が高いということである。

オリバー氏が紹介する症例はジミーという49歳の男性だった。
彼はウェルニッケ脳症を伴わない、純粋なコルサコフ症候群のケースである。
彼はいくつかの病院や施設を経て1975年にオリバー氏のもとにやってきた。
彼は陽気で、活発で、社交的であり、若い頃の話を明瞭に話してくれた。
その様子にはどこにも異常があるようには見受けられなかった。
彼が語る話は1943年の17歳の時に海軍へ入り、潜水艦乗り組んだ頃の話から戦争終結へと移っていく。
ところが、終戦後の大学時代、海軍時代にまで来ると、それまで過去形で話ししていたのが現在形の話し方になったのである。
怪訝に思ったオリバーがさりげなく
「それでジミー、君はいくつになるの?」
と尋ねると、ジミーは戸惑いながら
「え~と、19歳じゃないかな。今度の誕生日に20歳になるところです」
と答えたのである。

現在49歳のジミーは今だに19歳の時代を生きていたのである。

ジミーの身に起きている症状は、新しい物事・体験を覚えられない前向性健忘と、発症以前の過去の記憶がすっぽりと抜けてしまう逆行性健忘が合わさった状態だった。
ジミーの場合は19歳以降の記憶がすっかりと抜けてしまったのである。
自分は19歳という意識で生きている彼は、年齢を重ねた兄に会うとその変貌ぶりに驚く。
何より、自分の顔を鏡で見せられた時には非常にショックを受けてしまうのだった。
しかし、さらに悲しいのはその受けたショックも窓の外の少年らの野球風景に注意を向けてあげると、そのショックすら忘れてしまうのである。

理数系が得意で、頭の回転が早い彼は三目並べなど早く答えを出し展開の速いゲームは非常に得意なのだが、チェスなどの時間がかかるゲームでは全く力が発揮できないのである。

ところで、脳萎縮すら起きているコルサコフ症候群。
いわばアルコール性の認知症ともいえるわけだが、なぜアルコール依存症によってB1欠乏などの栄養障害が起きてしまうのだろうか。
アルコール依存症患者は酒ばかり飲んでつまみを摂ることが少ない。
それによる栄養障害で、ビタミンB1の摂取不足となることがまず挙げられる。
しかも下痢を起こすことも多く、それも腸からのビタミンB1吸収を悪くしている要因となっているのである。

さらに、アルコールを分解する際にはそもそもビタミンB1を大量に必要とするためにアルコール依存症の人は二重三重にビタミンB1欠乏を起こしやすくなっているのである。

コルサコフ症候群の主症状は健忘と書いたが、つまり記憶障害を起こすということで、昔のことを思い出すことができなくなるし、新しいことを覚えることも難しくなる。
しかも今現在いる場所や日時についてもわからなくなる見当識障害という症状も起きる。
人は記憶の積み重ねによって自分の存在というものを確認できるという。
たとえその記憶がつらく悲しいものであっても、それら経験の記憶のつながりの中で自分というものの存在を自覚できるのである。
その記憶が失われ、自分がどのような人間であったかを忘れ、今どこにいて、時間の流れすら失ったとき、それは
「まるで大海原に投げ出されたいかだに乗っているようなもの」
とも評される。
ジミーも時に「過去を忘れてしまっている自分」を気付かされショックを受けることがある。
しかし、そのショックすら次の瞬間には忘れてしまうのである。
だが、何らかの「違和感」は感じる。
その違和感の中で、彼は人生に失望も感じないかわりに、喜びも感じず、「生きている」という実感もないのだそうだ。
そのため、ジミーは常に寂しげで、落ち着かない様子を見せていたという。
確かに失われてしまった記憶の中にアイデンティティーを見出すのは不可能なようだ。
しかしジミーは神に祈りを捧げるときには非常に深い集中力を発揮し、穏やかな時間を過ごすことができたという。
宗教に限らず、自分を必要としてくれる仕事、あるいは自分を愛してくれる人、そういったもの存在によって自己肯定感をたとえ一時的ではあっても持つことが出来るのだろう。

オリバー氏の施設で、ジミーは庭づくりという仕事を与えられ、落ち着いた日々を過ごせるようになったという。

「作話」についても少し触れておきたい。
彼らはそうして記憶を無くす一方で、会話は上手で流暢である。
なので、本人は話のつじつまを合わせようと、思いついたことを上手につなぎ合わせ、会話を成立させようとする。
つまり、心ならずも作話をしてしまうのである。
自分に記憶障害があるとは思いもしていないわけだから、なんとか辻褄を合わせようとするのは当然の反応だろう。
そんな会話はまるで認知症の方との会話と同様である。
もし、そのようなとき、彼らの話すことが「作り話で間違っている」と指摘され、頭ごなしに否定されるようなことがあれば、彼らは寄る辺を無くし、追い詰められていくことだろう。
認知症を患っておられる方には、自分は認知症であるとの自覚はない。
自分の住んでいる世界の中で感じていることを話しているだけなのだ。
それは彼らにとって真実なのだから。
もし軌道修正が必要な場合であっても、一度その作話を受け止めてあげてほしい。
彼らは本当の記憶と自分の作話との区別がつかなくなることもある。
非常に暗示にもかかりやすく、実際にそこに見えないものでも見えるといわせることもできる。

なので、彼らの作話を頭ごなしに否定してはいけないが、作話に付き合いすぎて、内容をエスカレートさせ、助長させてもいけない。

いずれにしろ、「自分」を無くさせないように、大海原に漂うことにならないように、
ウェルニッケ脳症の段階で禁酒と栄養改善、リハビリによる運動機能改善を図り、コルサコフ症候群を防ぐことが大事である。
もちろん、ウェルニッケ脳症にもならないほうがいいのは言うまでもない。

それに、すべてのアルコール依存症患者が本疾患を発症するわけではないが、毎晩2合以上の晩酌は欠かせないという方は、くれぐれも注意したほうがいいようだ。

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